執筆者:エー・アソシエイツ研究所 代表取締役 荒木義修
【序論】農業・農学は「約束事の社会科学」
現代における農業および農学、さらには農業経済学や農業経営学を理解するためには、「社会科学=約束事の社会科学」という視点が極めて有効です。この立場は、吉田民人氏による『新科学論』に端を発しており、社会科学は「人間による制度設計=プログラム(約束事)」を研究対象とする科学であると定義されます。
この視点から、農業や農学もまた、物理法則や自然法則に基づきつつ、人間の目的に沿った制度設計と技術開発の融合領域として再定義されつつあります。
「約束事の科学」としての農業経済学・農業経営学
【農業経済学】制度設計の科学として
農業経済学は、農業の現場における資源配分、政策設計、流通システムの構築といった、「望ましい農業経済状態」を実現するための制度やプログラムを研究対象とします。
たとえば:
- 食料安全保障の実現
- 持続可能な農業政策の設計
- 農家の所得安定を図る補助制度の評価
これらはすべて、「マスター・プログラム(目的)」に基づき、「制度的プログラム(手段)」として設計・運用されるものであり、まさにプログラム科学としての農業経済学の中核を成しています。
【農業経営学】経営体の設計科学として
一方で農業経営学は、農家や農業法人といった個別経営体が、以下のような設計構造をもとに意思決定を行うプロセスを対象とします:
- 経営理念(マスター・プログラム)
- 経営方針(中位のプログラム)
- 経営計画(下位の実行プログラム)
農業経営学は、「何を目指して農業を営むのか」「どのような戦略で経営するか」「日々の経営行動をどうデザインするか」といった設計行為を科学的に分析・支援する学問であり、社会科学としての農学的実践を担います。
農学(農業科学)の二重性:自然科学と人工物設計科学
農学は一般に「生命科学」「環境科学」とされますが、それだけではその本質を十分に説明できません。
【農学A】自然法則に基づく側面
たとえば以下の分野は、自然科学=法則科学としての農学に該当します:
- 作物の光合成や栄養生理の研究
- 土壌の化学特性や微生物構成の解明
- 気象条件と収量予測モデル
これらは自然界の不変的法則を明らかにするものであり、農学の「理科系的」側面です。
【農学B】人工物システムとしての側面
一方で現代農学の中心には、次のような人工物システム科学(設計科学)としての側面があります:
- 持続可能な農業システムの設計
- ICT・AIを活用したスマート農業の実装
- 病虫害管理計画の最適化
- 農地利用計画・水資源管理モデルの構築
これらは、自然法則に基づきながらも、人間の目的に応じて農業を設計する実践的学問であり、「約束事の社会科学」としての農学そのものです。
【未来展望】農学の文理融合と人工物科学
現代の農学は、自然法則の解明に加え、人間の社会的価値観や目的に沿って設計される農業技術・制度の体系化という側面を強く持ちます。
- 食料の安定供給
- 環境負荷の最小化
- 地域コミュニティとの共生
- 子どもたちへの食育・農業体験提供
これらの目標を達成するためには、「法則科学」と「設計科学」の融合が不可欠です。つまり農学とは、文理融合の最前線にある総合科学なのです。
【まとめ】農業と農学の再定義と新たな農学部像
現代農業科学の再定義
分野 | 学問的性質 | 目的 | 対象 |
農業経済学 | 約束事の社会科学 | 制度設計 | 農業システム全体 |
農業経営学 | プログラム科学 | 経営の最適化 | 個別経営体 |
農学(理科的側面) | 自然法則科学 | 法則の解明 | 作物・環境 |
農学 (社会科学的側面) | 設計科学 人工物科学 | システム構築 | 農業技術と制度 |
現代農業科学とは、自然科学的知見と社会科学的制度設計を融合させることで、人類と地球の持続可能な未来を共に創る設計知=知的実践の科学であると定義することができます。
【実践的意義】現代農業科学論の社会的な役割
「現代農業科学論」は、農業を単なる技術の集積や自然との格闘として捉えるのではなく、人間社会がどのような食や暮らしを望むのかという「価値(約束事)」と、それを実現するための「制度や技術(プログラム)」との相互作用として再構築する視点です。
このような再定義は、私たちが直面する多くの農業課題――たとえば:
- 持続可能性の欠如
- 担い手不足
- 流通・価格決定の不透明性
- 消費者との分断
- 地域の疲弊
といった問題に対して、単なる「現象の観察」ではなく、**望ましいあり方を設計しなおすことができる「実践知」**として活用することができます。
【視点転換】制度と常識を問い直す
現在の日本農業は、過去に構築された多くの制度(プログラム)と価値観(約束事)によって運営されていますが、それらは今の社会に必ずしも最適とは限りません。
- 「農家は作るだけ」「販売は別の主体がやる」
- 「補助金を受けて当然」「価格は市場で決まる」
- 「地方ではもう農業は成り立たない」
こうした“常識”は、かつての時代の「約束事」に支えられたものです。
現代農業科学論の立場は、それらの既存の前提を問い直し、社会の新たな要請や技術の進展に対応するかたちで、制度や仕組みを“再設計”していくための視座を提供します。
【提言】未来をつくる農業の設計者たちへ
- 農業経営者には、自らの経営理念と社会の価値を接続するためのプログラム設計力を
- 農政担当者には、制度の柔軟性と公共性を両立させる思考力を
- 消費者や市民には、農業という「社会の一部」との関わり方を再定義する視点を
このように、すべての社会的ステークホルダーに向けて「農業の再構築」に参加する意識を呼びかけることが、「現代農業科学論」の本質的な実践的貢献なのです。
【六次産業化】農業が担うべき「価値設計」の拡張へ
近年では、農業者自身が加工・流通・販売までを担う「六次産業化」の動きが加速しています。これは、農業が単なる原料供給者ではなく、「どのような食と地域を創るか」という価値設計の主体となる変化です。六次産業化は、農業と食品関連産業を横断的につなぐプログラムの再編成でもあり、「約束事の社会科学」としての農業の役割を広げる重要な展開です。
【ビジョン】農学が担うべき新たな使命
現代の農学は、「生命科学」や「自然法則」に限定された領域から脱皮し、「社会設計」「制度構築」「農業イノベーション」を担う総合的かつ戦略的な学問としての再構築が求められています。
日本の農学界、とりわけ農学部をはじめとする教育・研究機関は、これまで国際競争力や生物工学に重点を置いてきた一方で、日本農業の現場に対しては十分な関与がなされてこなかったとの反省があります。
しかし近年では、こうした流れを見直し、地域の課題に応じた研究や教育への転換も着実に進みつつあります。今後は、農業現場と社会をつなぐ「架け橋」として、現実的な制度設計を支えうる知のプラットフォームとしての役割が、農学に強く期待されています。
【おわりに】持続可能な農業社会に向けて
弊社では、可能な農作業の実務をA型・B型事業所に委託し、障がい者支援の現場と連携しながら、制度設計と現場実践の橋渡しを重視しています。こうした取り組みは、農業の文理融合的な展開として位置づけており、「制度」という枠組みの形成と、その運用における「市民参加」の可能性を広げるものです。
現場からの学びと理論の構築を往還させることで、持続可能な農業社会を構築していくことが、本稿で提唱する「現代農業科学論」の基本的な方向性でもあります。
【今後の展望】理論と実践の往還に向けて
今後は、「農」を軸に、社会制度のあり方や持続可能な地域社会の再構築に寄与できるモデルづくりを進めてまいります。とりわけ、農業の現場と制度設計のあいだに存在する「秩序と自由」「制度と創造性」といった緊張関係を意識しながら、理論と実践を往還する営みの中で、文理融合的な知のあり方を模索しつづけたいと考えております。
【コラム】食産業を読み解く「約束事×プログラム」モデル
私たちが毎日手にする食品や外食サービスの背景には、「どんな社会をつくりたいか」という価値観=約束事(promise)と、それを実現するための制度・技術・工程=プログラム(program)が密接に関係しています。
たとえば――
産業領域 | 背景となる「約束事」 | 具体的な「プログラム」 |
---|---|---|
食品製造業 | 安全で安定した食料供給を保障すること | HACCP、品質管理工程、食品表示法、トレーサビリティ制度 |
食品工場(加工業) | 保存性・利便性のある食を多様な層に届ける | 加工プロセスの自動化、冷凍・レトルト・真空技術、衛生工程管理 |
外食産業 | 手軽に栄養のある食事を摂る社会の便利さ | 食材調達網、レシピマニュアル、店舗オペレーション、FC制度 |
内食産業 (スーパー・惣菜・宅配) | 忙しい家庭でも家庭的な食を再現できる環境 | 中食製造、宅配システム、レシピ提案アプリ、冷凍食品の高度化 |
これらはすべて、「持続可能な社会」「安心できる生活」「誰もが食べられる社会」という暗黙の約束事を背負っており、それをどう形にするかというプログラム設計の積み重ねによって、私たちの食生活が支えられているのです。